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つれづれに見ている芝居の劇評、時に激甘、時に激辛、往往にして大感激
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(作・演出:藤田貴大)

こんなに演劇を見て衝撃をうけたのは何年ぶりだろう。弱冠26歳にして岸田國士戯曲賞を受賞した藤田貴大(1985年生まれ)のほぼ一年ぶりの新作、らしい。


1時間50分の上映時間中、1時間号泣。私だけかと思ったら終演後の暗闇にすすり泣きが響き渡る。2000年以降に世に出て来た劇作家たちをゼロ年代世代というらしいが、若くしてすばら
しい活躍をする同世代の演出家・劇作家たちの中でも傑出した才能だと思う。

作品そのものは身体を揺さぶり、走り、舞踊なのか体操なのかに近い動きをしながら、俳優が何度も同じシーン、同じ台詞をリフレインするなど、非常に演劇的 だし、むしろ演劇でしか成立しえない作品なんだけど、なんというか、小ネタ演劇に慣らされた感性には、この作品世界がむしろ小説や現代アート の枠組みに入るような印象をもたらす。小劇場的な手垢を感じさせない、高尚さを感じる作りなのだ。


描いている物語世界は、誰もが一度は経験したことのあるような小さな身近なことで、今回の作品では姉、弟、妹の三兄弟が、自分の育った古い故郷の家が、道 路計画によって取り壊されるその日の気持ちと、その家での過去の家族の記憶の交差っていう、ただそれだけのこと。なのだが、何度も記憶の断片が音によって よみがえり、役者たちにリフレインされることによって、見る人の個人的な感情に入りこんでいく。藤田さんは近年「記憶」にこだわって、作品を発表し続けて いるらしいのだが、作品全体を通して、人とはバラバラな記憶の集合体であり、人間だけがその小さなかけらに愛着を持ち、それを繰り返し取り出しては眺め、 だがしかし、その記憶自体は常に失われ続けて行く運命にあることを表現しようとしているように思えてならない。藤田さんもまた、失われた時を求めて、作品 を作り続けているのだろう。そういう意味では、ストーリー的に似ている所はないのに、初期の村上春樹作品をほうふつするというのも、彼の戯曲が小説的であ るがゆえかもしれない。

感心したのは、すでに壊された家を見ながら、長女や長男がここには風呂場があって、ここは私の部屋で…と回想する場面で、観客は否応なく東日本大震災で津 波にさらわれた家の土台だけ残った映像を想起させられるところだ。「帰れるかな」と問う声に「帰れるさ」と強く答える声。「変わらないでね」という呼びかけに、「どうかな?」と応える声。震災の後、住み慣れた家を永久に失った人たちの姿が役者たちのたたずまいに重なる。このように、小さな名もなき家族の物語が、一気に社会との接点を持ち、なおかつ普遍的な共感をよぶと いう”半径2メートル以内の関係性”からの脱出を遂げている点にも新しい可能性を感じる。


俳優たちは抑揚も少なく淡々と語るのだが、身体を動かして、スピーディーに台詞を繰り返すことで、あるときは淡々とした抑揚の中に、悲鳴のような心の叫び が表出する。何度も繰り返した同じ場面なのに、ここはこの人物は心では泣いていたんだということが、突然理解される。それは、私たちの日常でも経験される ことで、心の中で何度も反芻したはずのかつての場面で、ある日突然その場面にいた人物の心情を理解することがあるのに似ている。また、演出家中心の芝居だ と俳優の個性をリセットしておくことが往々にしてあるんだけど、マームとジプシーの場合、端役にいたるまで俳優の個性が生き生きと表現されているのに好感 が持てた。


ゆとりだのなんだの言われてるけど、80年代生まれのクリエーターってものすごく優秀なんじゃなかろうか。藤田さんも子役から演劇をやっている人だそうで、桜美林大学で演劇を学び、27歳にして17年の経験者。プロ度が違うわ。
 

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